『置かれた場所で咲きなさい』への違和感
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉には、
「まあ、その通りだよね」と思うところと、
「それは絶対におかしい」と思うところがあります。
肯定する考えはアマゾンレビューにお任せするとして、
今回は、わたしが違和感をいだいた点をツラツラ書きます。
【頑張りが必要な時期はある】
仕事でも育児でもなんでもそうですが、
それ以外のことを考えるヒマもないくらいに
忙しく過ごす時期は、あってもいいと思うのです。
1年でも半年でもあるいは1ヵ月だけとかでも、
ある程度の期間を決めたうえで。
そのがんばりによって得られる経験や自己成長は、
のちの人生にとって大きな財産にもなるから。
わたしも、会社員として6年間はたらいた中で、
「本気で」仕事をしていた時期は1年半くらいありました。
プライベートの時間もけずってまで、仕事のことばかりを
考えていた時は、当然ながら成長もできたし、
会社からそれに見合った評価もしていただけました。
ただ、
「その頃のがんばりを、ずーーっと続けたいと思うか?」
といわれれば、
「無理」
と答えます。
それが、今回の本題です。
【違いはあってあたりまえ】
植物や動物に例えると、イメージがしやすいと思います。
●植物
・日当たりを好む/日影でないと育たない
・夏のあつい時期に育つ/寒い時期でないと育たない
・水を毎日あげないとダメ/水は月1回ほどあげれば充分
●動物
・昼間に活動する/夜行性
・群れで行動する/単独で行動する
・肉食動物/草食動物
人でも、同じことです。
・大人数でワイワイ過ごしたい/ひとりでカフェでゆったり過ごしたい
・人とコミュニケーションをとる仕事が好き/ひとりで黙々と進めるのが好き
・残業が苦にならない/なにがなんでも定時で帰りたい
・ぐいぐい引っ張るリーダー向き/縁の下で支えるサポーター向き
これらの違いは、良いか悪いかではなく、
「違いはあって当たり前」なんですね。
つまり、適材適所でなければ、
その人の強みを殺すことにもなるということ。
【咲けない人にまで無理強いをするな】
日当たりを必要としない植物があるように、
自分の時間を過ごすことを大事にしてい人が、
運のわるいことにパワハラが横行する会社に入ったり、
毎日のように終電帰りを強いられたら、どうなるでしょう?
そもそも「合わない」というのに、
「置かれた場所」で耐えられなくなった結果が、
心の病や、自死につながってしまうのではないでしょうか?
そんなキビしい環境の中、身も心もボロボロになりながら
日々を生きている人に対してまで、
「置かれた場所で咲きなさい」
「いまの環境でダメなら、どこに行ったってダメだよ」
そんなことは言えるでしょうか?
わたしは絶対に言えませんし、言いたくありません。
だって、そもそも「そこでは咲けない」のだから。
【咲けなくたっていい。逃げろ。】
咲くためには、育つための環境が本当に大事です。
もちろん、なにもかも「環境のせい」にすることとは違います。
自分の言動のクセや考え方に明らかな問題があって、
「自分を変える」ことで無理なくWIN-WINになるのなら、
それが一番いいですし、それに異論はありません。
そのうえで「咲けない」ならば、環境を変えるべきです。
その環境「だけ」で、咲こうとしなくてもいいと思うのです。
ギリギリの状況で生きる中で
「ここでダメならどこに行ってもダメ」
と洗脳じみたことを言われたら、
誰だって「そうか、私はダメなのか」
と視野がせまくなります。
ここは、声を大にして言わせてください。
人生には、色んな選択肢があります。
他人に人生を「選ばせる」のは、ヤメにしませんか?
人生を自ら選んで進んでいくのも、あなたの責任です。